2007年5月26日土曜日

私は大まかに言って2種類の人たちと接していると言っていいと思う。

一方の人たちには、将来をとても期待され、他方ではいわゆる普通のポジションだ。

で、今軸を置いているのは後者。

将来的に携わる予定は前者。

うん。ここに矛盾を感じて立ち止まった事もあったが、この選択は正しいと感じている。

周りの人の意見は、その人たちの経験則からできている。だから、将来すごくなると言う印象もその過去の経験則からのもの。

そして一見関係ないと思われる後者の事にとりくむことで、新しい事が生まれるはずだ。

自分の目指す状態をうまく説明できないのは、決して悪い事ではないのではないかと思ったりもする。

説明できるような状態は、往々にして既存のものだろう。

説明できないもやもやしたものを、自分の力で表現するのだ。



そういう偉そうなことを言ってみる20歳。

2007年5月7日月曜日

死について

死ぬとは何か。それについて、深く考えた事は無かった。

しかし昨日は考えた。

特に身近な人がなくなった訳ではないのだが。。。


こと、自分の死という物を考えるものではないと言うのが僕の意見である。

なぜなら、「コントロール不能」であるから。

いつ死ぬかなんて誰も分からない。

考えるとは未来をより良くするためのものである。

不可避ではあるが、コントロールの範疇を超えているものを思考の中に入れても全く無意味だと感じている。

できることは「今」を大切に生きる事だけ。

志半ばで死が訪れても、そこまで本気で走ってきたのであればしかたないこと。

例えば、百メートルを透明人間と勝負するようなものであると思う。

確実に自分の近くを走っているのではあるが、現在地は確認できない。

そこで何が出来るのか。

それは

全力で走る事。それだけ。

もし10秒で走れるのに12秒のペースで抜いて走っていて、11秒のところでゴールテープがヒラッとゆれた(透明人間=死のゴール)場合、どれだけ後悔する事か。

10秒以上のペースで走っていたが、9秒でゴールテープが揺れた場合。

これは素直に自分の負けを認めるしか無い。

しかしそれは喪失感などではない感情がそこにはあるのではないか。