2007年4月27日金曜日

プロフェッショナルという逃げ

昨年お世話になった、講師の方が1つ下の学年を教えに大学に来ていた。

毎週授業後にスライドレクチャーと飲み会をして色々と普段聞けないような事を聞いていた。

僕に取っては建築というものの位置付けが変わっていると思ったが、むしろ自分としては共感し、幅を持った話に毎回ワクワクした。

そして、今年も、授業は受けてはいないが、そのレクチャーや飲み会に参加させてもらった。


ちょっと悲しい話になるが、その飲み会に行く途中に、同期の仲間に「お前そんな余裕あるの?」と言われた事だ。

あぁ。

僕ら建築学科の学生は常に設計製図と言う、終わりない課題に取り組んでいる。

もちろん現在もそれを抱えながら生活している訳だが、それを理由にというか、それさえやっていれば良いと考えている人、或いは、それしか時間的にできないと思っている人が多すぎると思う。今に始まった事ではないが・・・。

僕は、そういう理由と言うのは、そもそもかっこわるいし、視界が狭すぎると思っている。愚痴の様に、飲み会に来ていた先輩にそのことをどう思うか聞いてみると、その先輩も同じような事を考えていた。先輩は「プロフェッショナルという逃げ」という言葉を使っていたが、言語化が上手だと思った。

こういう一瞬矛盾に感じるような言葉で言いたい事を現す事は、とても重要なスキルだと思う。

それはさておき・・・

プロフェッショナル。はたして、専門だけやっていて、本当のプロフェッショナルになる事は出来るのだろうか。僕の答えは否だ。

なぜなら、僕の前提として、その専門性が「社会でどう作用し、どう影響をして、どう変化させたか。」それが重要だと思っている。そのため、プロフェッショナルというのは、大衆のためにあるものでなければ意味が無い。「専門家のための専門」というのがこの世には多々起こっているのではないだろうか。横断的な広い知識が有り、一曲しか見えていないプロフェッショナルとも話が出来る。そういった人材が必要だと考えている。

このあたりは、考え方が良く変わって行く自分としてはめずらしく、1年の頃から変わらず抱いていた疑問の1つだ。


ただ、そうやって僕の考えているプロフェッショナルを目指している人が多ければ多いほど、真の意味(僕が考える)でプロフェッショナルというものの価値は高くなって行くと思う。

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